「カッコいい」とは何か
「「カッコいい」とは何か」を読んで学んだ知識や考え方をご紹介します。
「「カッコいい」とは何か」先ず、このタイトルに興味をそそられました。カッコいい人に憧れますし、自分自身もカッコよくなりたい。でもそう言われてみると、カッコいいって何でしょう?カッコよくなるためには、それを知らなくてはいけませんね。
この本で学び取ったことの重要ポイントをお伝えします。
「カッコいい」の語源
「カッコいい」の語源は、やはり「恰好が良い」のようです。
「恰好」は外観的な見栄えのような意味合いで、「恰好が良い」とか「恰好が悪い」というように使われます。
「恰好が良い」と「カッコいい」の違い
「恰好が良い」と言うと、外観的に見栄えが良いというイメージですが、「カッコいい」と言うと、見た目だけではなく言動なども含まれ、もっと範囲が広くなり、別の言い方をすると「しびれる」というニュアンスである。
「カッコいい」は自由だ
それを「カッコいい」と思うかどうかは人それぞれの感情であり、自由である。そしてそれはその人の価値観であろう。
「カッコいい」と「カッコ悪い」
私たちは「カッコいい」人に憧れるし、自分も「カッコいい」人になりたい。
目標に向けて頑張っている姿もカッコいい。なので「カッコいい」人になろうとしている姿もカッコいいことになる。
「カッコいい」とは反対の「カッコ悪い」という言葉もある。「カッコいい」が普通以上とすると「カッコ悪い」は普通以下だ。カッコよくなくてもいいけど、カッコ悪いのは避けたいという気持ちの方が強いかもしれない。
カッコいいと言われる嬉しさよりも、カッコ悪いと言われる恥ずかしさのほうが多分辛い。だから皆、カッコ悪くならないように無難なほうを選ぶのか。
「外観」か「内面」か
例えばカッコいいデザインは「外観」ではないか。
カッコいいデザインの服を着ていたらカッコいいか?似合っていたらカッコいいでしょう。
ということは、洋服のデザインだけではなく、着ている人もカッコいいことになるでしょう。
すると、自分に似合う良いデザインの選んだその人のセンスもカッコいいということになり「内面」も含まれてくる。
そして、その人に「その服カッコいい!」と言って「そう?ありがとう。」と素直で上品な言葉が返ってきたら、それこそカッコいいでしょう。
カッコよくなりたい
カッコよくなりたいと思ったら、何がカッコいいかを明確にしなくてはいけない。
それは、自分がどうありたいかという価値観であったり、生き方であったりする。
そう考えると「カッコいい」という言葉は軽いようで、実は生き方を左右するような重い意味を持っているのかもしれない。
この本のご紹介
この内容に興味がありましたら是非読んでみてください。おすすめの1冊です。
本書は、「カッコいい」男、「カッコいい」女になるための具体的な指南書ではない。そうではなく、「カッコいい」という概念は、そもそも何なのかを知ることを目的としている。
「カッコいい」は、民主主義と資本主義とが組み合わされた世界で、動員と消費に巨大な力を発揮してきた。端的に言って、「カッコいい」とは何かがわからなければ、私たちは、20世紀後半の文化現象を理解することが出来ないのである。
誰もが、「カッコいい」とはどういうことなのかを、自明なほどによく知っている。
ところが、複数の人間で、それじゃあ何が、また誰が「カッコいい」のかと議論し出すと、容易には合意に至らず、時にはケンカにさえなってしまう。一体、「カッコいい」とは、何なのか?
私は子供の頃から、いつ誰に教えられたというわけでもなく、「カッコいい」存在に憧れてきたし、その体験は、私の人格形成に多大な影響を及ぼしている。にも拘らず、このそもそもの問いに真正面から答えてくれる本には、残念ながら、これまで出会ったことがない。
そのことが、「私とは何か?」というアイデンティティを巡る問いに、一つの大きな穴を空けている。
更に、自分の問題として気になるというだけでなく、21世紀を迎えた私たちの社会は、この「カッコいい」という20世紀後半を支配した価値を明確に言語化できておらず、その可能性と問題が見極められていないが故に、一種の混乱と停滞に陥っているように見えるのである。
そんなわけで、私は、一見単純で、わかりきったことのようでありながら、極めて複雑なこの概念のために、本書を執筆することにした。これは、現代という時代を生きる人間を考える上でも、不可避の仕事と思われた。なぜなら、凡そ、「カッコいい」という価値観と無関係に生きている人間は、今日、一人もいないからである。
「カッコいい」について考えることは、即ち、いかに生きるべきかを考えることである。
――「はじめに」より
引用元:amazon商品説明
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